「眠れないの」
ベッドの中で夢の世界に旅立っているはずの彼女が、仕事中の僕の部屋の扉を叩いて言った。
仕事が丁度一区切りついたので、僕はパソコンの電源を落として彼女をそっと抱きしめた。
今までベットの中で丸まっていた彼女の体温は、冷え切った僕の体を電気ストーブなんかよりもずっと確実に温めてくれる。
「勿論眠いんだけど、それでも全然眠れなくてどうしよう」
明日、僕の母と彼女の両親を交えて会食と結婚の許可を正式に貰うことになっているのだ。
お店は明るい日差しの入る二人の門出を祝福するにふさわしい、更には料理も旨い僕たちのお気に入りの店で、この話をしたらオーナーが特別にシャンパンを振舞ってくれると約束までしてくれている。
「緊張してるのかい?」
「うん多分、でも可笑しいわよね。ヒロちゃんのお母さんとは何度も会ってるし、うちの両親も喜んでくれているのに、いざとなったら緊張して眠れないなんて」
「そんなこともあるさ、僕だって幸せすぎて眠れないことが沢山あるぜ」
僕の言葉に葵はやさしくフワリとした笑顔を浮かべた。
「そうだ、無理に寝ようなんて思わずに気持ちを落ち着けよう」
葵をキッチンに連れて行き、やかんに水をいれてお湯を沸かす。
紅茶は汲みたての水を沸かさなければ美味しくないからだ、葵も戸棚からとっておきの紅茶の缶を出して、お気に入りのティーカップを温めだした。
調子に乗った僕は、明日の朝食になるはずだった市販の物よりやや固めの彼女が作ったベーグルを暖め、冷蔵庫から生ハムとブルーベリーのジャムを出し、更にはちぎっただけの簡単なレタスのサラダを作った。
ドレッシングに柚子胡椒を足すのが僕たちのお気に入りだ。
お湯が沸いてティーサーバーの中の茶葉がダンピングを起こし、紅茶のいい香りがキッチンに溢れる。
さあ、深夜のティータイムの始まりだ。
僕と葵は、くだらない昔話に涙まで浮かべて笑いあい、最近見た映画について激論を交わし、そしてこれから二人で築いていく家庭についての思いを語り合った。
思わぬ深夜の楽しい時間を、僕たちは充分に堪能した。
やがて自然の摂理に基づいた睡眠の誘惑が訪れると、ベットに横になって僕は葵の寝息をBGMに眠りについた。
勿論大切な日に遅刻なんていただけないから、目覚ましはセットしてね。
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